はじめに
『通常技』
私は昇龍拳が苦手である。そこが前提だった。足払いに昇龍拳を当てるという戦術がタイミングを読んでさえいても、(情けないことに)この手が言うことをきかなくてできないのである(2P側ならできることもある)。
ここで足払いに昇龍拳を当てられれば、真っ向勝負で相手の足払いの選択肢を潰せるという状況があったが、その前提があるので他の人よりも遠回りをすることになった。足払いの使い分けや微妙な間合いの見切りを研究し、技術ではなく、相手の動作や心理を洞察し、それに対する反応やその裏をかくという攻防を追求していったのである。
と言ってもこれは特殊ではなく、ストUは技術は後回しで、間合い戦や心理的駆け引きが勝敗につながるという対戦ゲームとしては希有の完成度を誇っていたので、私だけではなく勝利を目指す人は全てこの自然の流れに乗っていった(私の場合、その必要性が切実であっただけ)。
みんな最初のうちは一気にピヨらせられる攻撃やピヨりからピヨりなどの連続技が発見される度に興奮していたが、だんだんどれだけの連続技が入れられるかという大道芸はどうでもよくなり、どうやったらその連続技を入れられるような状況にできるかに重点を置くようになった。そして最後に連続技を入れられるようなチャンスすらくれない相手の時はどうするか、というところに行き着いたのである。
機械のような操作で「うん段入れられます」も「へー、よかったね。けどその技の最初の1撃を食らう人いるの?」でおしまいだ。ある程度実用的な3段くらいできれば問題なく、後は駆け引き勝負。1試合のうち連続技など全然見られない対戦も珍しくなく、上達すればするほど「誰にでもボタン1個で出せる通常技の使い方が重要」ということがわかっていった。変に器用で必殺技や連続技に こだわる人はスキが多くて弱かったのである。
ストUとは簡単に相手に派手な技を入れられるような浅いゲームではなく、「心理的駆け引きにズバ抜けていて、決めるべき時には確実に決める」という者だけが勝てる世界なのである(ストUXでは疑問があるが)。
だんだんと対戦ゲームは手先が器用な者しか勝てないシステムになっていった。
以前のストUを知っている私にとっては、現在の対戦格闘ゲームしか知らない人は可愛そうだと思う。
『リュウケン戦の流れ』
経験上、リュウケン戦の勝敗は自分の流れにいかにするかという点で決まり、それが一つ一つの足技戦による局地戦の積み重ねであったり、波動拳の読み合いであったりする。その結果壁際に追いつめられていく方は精神的にも追いつめられていき、流れの通りに負けるべくして負ける(かなり詰め将棋)。
スーパーコンボという逆転技が増えてから一発逆転の要素が組み込まれたのだが、スーパーまでなら組み立てや心理戦に上回る方がよほどのことがないかぎり勝利することができた。そのギャンブル性の無さがストUの長所であり短所でもあった。
相手の戦法や組み立てをいち早く分析し、それに対して相性のいい戦略を立てることが勝利につながる。簡単に言えば波動拳を撃つリュウケンには跳び込みを選択するように足技戦にも同じものが存在する。自分本意の人は思考的相性を 跳ね返すことはできない。
相手を知るために最初は探り合いとして情報収拾を兼ねた局地戦を行い、また布石として意識的に散りばめる。これが分析力・洞察力勝負と呼ばれる準備段階だ。地力に差があるとこの段階で勝負が決まってしまうので駆け引きにならないのである。
同じ使い手でも学習機能や心理的な問題によりラウンド・ラウンドで微妙に 違うし、準備段階での局地的展開も関わってくるので、相手の戦い方を知っているから必要がないということはない。なぜならその時の心理が影響した踏み込み間合いの差で足払いの質はかなり変化するからである。
間合いの差というのは相手の狙いによって決まるので、その狙いさえ見抜ければ相手が次の瞬間する行動や止まる間合いが予測できる。これが「確信に至る読み」と呼ばれるものである。上級者相手ほど狙いと行動が一致しているので読み易く、一致していないレベルの使い手は前述のように探り合いの段階で墜ちていくので読むまでもない。
そして互いに相手のことがだいたい分かって戦略が決まると、相手と自分の 組み立ての中で駆け引きの展開上どちらも譲れない正念場がやってくる。戦っている本人たちがその時気づかないこともあるが、その局地戦が「勝負の振り子が傾く局地戦」だ。そこで勝つことができないと大局でも勝てないのである。
その「勝負の振り子が傾く局地戦」が終わった後で、その勝敗を初期化できる決断、それが勝負強さとしぶとさなのである。